鬼滅が良いなら他も全部良いから

間違えて劇場版2回観た。

 

今世間ではまさしく鬼滅旋風。自分の周りでも、40超えた課長が飲み会でクソ面白くない鬼滅ネタを繰り出すのでウソの笑顔を無理くり捻り出してみたり、売れてるものだからとりあえず履修しとくかの感覚で読み始めてみると、別につまらなくはないけど超面白いワケでもなくて反応に困ってみたりと、順当に流行の濁流に巻き込まれている。

 

元々原作もアニメもある程度は追い掛けていたのだが、何故こんなタイミングでここまでの売れ行きを見せているのか、正直納得の行かない点が多い。

 

ワンピース、BLEACHNARUTODEATH NOTEが同時に連載していた時期のネウロやムヒョロジを想起させるような、良くも悪くもジャンプの中堅漫画という印象で、世間がなんでこんなことになっているのか付いていけないでいる。

 

劇場版が公開されて早2ヶ月が経とうとしているが、いまだに映画館ではPG-12というレーティングにも関わらず、親に手を引かれ、無限列車へいざなわれて行くマセたキッズの群れをお目にかかれる。ボクたちこれ深夜アニメだよ?

 

多分20年後の受験生は鬼滅のキャラの名前を暗記させられフルネームを漢字で書かせられているし、『竈門禰豆子』が漢字で書ける小学生は今頃クラスのヒーローで、多分足が速い奴よりもモテて童貞も捨ててるんだろうな。

 

原作を読んでいても、アニメを観てても、正直ここまでの評価される作品だとは思っていなかったし、今も思っていない。

 

これは果たして本当に作品が自分の好みと合わないのか、それとも持ち前の逆張り癖が作品を正当に評価することを妨げているのか、もう自分では分からない。そもそも逆張れそうな作品が好みなだけ、という可能性もある。

 

思えばワンピースもドラゴンボールも読んでいなかった。世間で定番とされている作品を読むことよりも、「クラスで自分だけが知っている面白い作品」を探すことに夢中だったように思う。

 

自分の人生には各所でこうした逆張り癖が故の奇行が見られる。中学生の時に大流行したモンスターハンターでも最初に狩猟笛を選んで練習していたし、カードゲームもデュエマや遊戯王ではなくデジモンのカードを好んで集めていた。カレーよりもシチュー派であることを豪語していたし、マックでも王道のチーズバーガー2個買いを邪道と断じ、頑なにダブルチーズバーガーを買っていた。

 

日常生活のあらゆるフェーズで、相手から「通だねえ」の一言を引き出すための言動を選択してきた人生だった。自分は運動もできなかったし顔も良くなかったが、人一倍目立ちたがり屋だったので、人と逆のことを言った時に自分に浴びせられる奇異の目線が、「お前は特別だ」と言っているようで、心地良くてたまらなかった。

思い返すと奇異の目線、というのも過去の自分の都合の良い解釈だったことに気付く。僕は逆のことを言っている人を見ると「逆のことを言ってんな」程度にしか思わないし、その人の言ったことを気にも留めない。

 

自分に自信がなかったからこそ、相手と違うことを言わなければ話を聞いてもらえないという強迫観念に常に追い立てられていた。そんな生活を25年続けて蓋を開けてみれば、主義もポリシーもなくただ世間と逆のことを思考停止で言うだけの、「でも〜」を接頭語にして話始めるのが癖になったヤバい大人が出来上がってしまった。

 

改めて、今まで自分は何人の優しい人たちに「個性的ですね」と無理矢理言わせてしまったんだろう。自分が他人に強要してきた数々の優しさのことを思うと叫び出しそうになる。

 

 

自分の逆張り体質がそういう経緯で出来上がった自覚があるからこそ、改めて鬼滅の刃を自分が面白いと思っているのかどうか分からなくなってる。良い大人の分際で、1万円以上身銭を切って集めた漫画のことを自分で面白いのかどうかすら分からなくなっているのが我ながら情けない。逆張りでインスタントに目立とうとした人間の末路はこうなる。

 

いっそ鬼滅が売れてなかったら迷いなく「今のジャンプだと鬼滅がアツいよ」ってしたり顔で言うことができたのに。きっと僕は自分が面白くないと思う人たちと同じ物を好きになりたくないんだろう。会社の上司や野球部出身の同期と自分自身が同じセンスなのだと思いたくないのだ。センスなんて上も下もなくて、ただ好むかこの好まざるかがあるだけなのに。

 

だから僕は毎回鬼滅の話題になるとついつい「鬼滅が良いなら他も全部良いから」なんていうつまらない水を差してしまう。なんかすごい恥ずかしい大人になってしまった・・・