そして大学生活は2度目の終わりを迎える

 

自分にとって、大学は夢のような場所だった。

毎日昼に起きてはダラダラと登校し、授業の時間は適当にTwitterを観てやり過ごす。

授業が終われば用もないのにサークルの部室に赴き、偶然居合わせた友人とそのまま居酒屋に駆け込み、サークルの同期のくだらないゴシップやバイト先で会った変な客の話をして、終電で家に帰って、また昼まで寝る。

 

やりたい事だけやっていればよかったし、やりたくない事は何一つやらなくても良かった。

何か考えているフリをしながら、何も考えないで過ごしていれば、何もしないでも自動的にそれなりの肩書きを世間に付けてもらえた。

 

僕は親と世間から頂いたモラトリアムを何かに費やすだけの目的意識もなかったので、専ら自由は暇へと転化されて行った。

暇だと人間は色々おかしくなる。自分の大学生活を振り返ってみても、親のスネを齧っている分際で煙草を吸ってみたり、悪ノリで居酒屋の店員を困らせてみたり、たかがサークルの中で歳上というだけで、後輩達に傍若無人な振る舞いをしたりと、とにかくイタい行動が多かったように思う。

 

思い返せば恥ずかしさで顔を覆いたくなるような出来事ばかりだったが、どう考えても楽しい思い出の方が圧倒的に多かった。サークル内で誰が付き合ったとか、今度の追いコンは絶対に成功させようとか、そんなスケールの小さい出来事に熱中したり、一喜一憂したりする時間がたまらなく愛おしかった。

 

 

そんな大学生活が、社会人3年目を迎えんとする今年、いよいよ終わろうとしている。

 

こと人間関係において、社会人と大学生の区切りは意外にも甘いもんで、社会人1年目の時は大学時代の友人と頻繁に飲みに行ったり、サークルの行事に顔を出したりしていた。

「社会人になった」という事実にフタをするように、僕はまだ大学生なのだと天に向かって宣うように、毎週のように友達と飲んでいた。

 

サークルの行事にみんなで予定を合わせて顔出して、終わった後はOBだけで集まって居酒屋に直行。「自分ら老害だよね〜」なんて擦り尽くされた枕詞を皮切りに、昔のように他愛もない話をする。

大学時代に使っていた居酒屋に行って、大学時代に頼んでいたのと同じメニューを頼んで・・・今思い返すと、自分が「大学生じゃなくなってしまわない」ように、大学時代の余熱を使って必死に大学生の真似事をしていたように思う。

 

 

しかしどうやら、その余熱がとうとうエネルギー切れになってしまったようだ。

 

最近、大学時代の友人と会う機会がめっきり減った。

別に減らそうと思っていたワケではない。仕事や生活に支障のない範囲で会えるチャンスがあれば積極的に遊ぶようにしているし、人間関係に嫌気がさしたワケでもない。ただ単に、都合が付くタイミングと、都合を付ける機会そのものが減った。

 

友達と遊ぶためには当然友達が必要となるが、同期も皆社会人なので当然都合の付くタイミングが減る。

週7日間ヒマで、どうやって楽しくヒマを潰すかに腐心していた大学時代に比べ、社会人は休日の残機が土曜と日曜の2機しかない。

そんな数少ない残機で、自分の趣味や恋人、済ませなければならない用事など、人生を取り巻くアレコレにどれだけの時間を割くのか、上手いことやりくりしていかなければならない。

そうなると皆自ずとフットワークは重くなる。少なくとも大学時代のように、思い付きで飲みに誘ったり誘われたりして、2時間後には居酒屋集合、なんでことができなくなる。

 

 

友達と遊ぶための友達を探すだけでも、かなり骨が折れるようになった。

事前に予定を決めて友人と遊ぶ。人によっては当たり前に出来ることだったりするのだろうけど、少なくとも自分には向いていなかったようだし、それをしなくても済むコミュニティに所属できたのは、本当にただ運が良かっただけなんだろうな、と改めて思う。

 

 

コミュニティと言えば、「同じサークルに所属していた人」との関わりも随分減った。

飲み会でもよく話していたし、何度も遊びに出掛けたことがあるけど、二人でいるとちょっと気を遣わなきゃいけない、くらいの距離感の人との関わりがパッタリなくなってしまった。

元々その人たちとは積極的に関わっていたワケではないにしろ、「サークル」という共通項がなくなっただけで、ここまで関わりがなくなるものだとは正直思っていなかった。

サークルというキーワードで結ばれていた連帯がほどけて、繋がりの太い関係だけが残り、曖昧に繋がっていた人間関係が溢れ落ちた。

 

その結果、自ずとサークルとの関わりがなくなっていった。これが自分にとって決定的な転機になった。

少し前まで、社会に出てからもなんとか必死で大学生のままでいようとしていたのに、今ではその気持ちもスッカリ鳴りを潜めてしまった。大人になりたくないと、駄々をこね続けていたら、いつの間にか大人になっている。

今ではもうサークルの人々との関わりはほとんどないし、大学時代のように「サークル員」として在ることを諦めてしまった。今でも自分は依然として大人になりたくないし、一生大学生のままで居たいと心底思っているが、それが叶わないことを心のどこかで悟ってしまったのだと思う。

 

そこが、本当の意味で自分にとっての大学生活の終わりだった。きっと遅かれ早かれ誰にだってそういう転機は訪れるが、自分の場合コロナ禍が止めを刺した。

 

いや、既に還らない大学生活を終わらせまいと、見苦しくもがいている所を介錯して貰った、と言う方が正しいかもしれない。

もしコロナ禍がなければ、僕は自分自身の「まだ大学生でいたい」という気持ちの終わらせ時に迷っていたはずだし、その迷いはきっと想像以上に苦しいものだと思う。僕はおそらく、まだ大学生で居続けようとする僕に向けられる冷ややかな目線に耐えられない。

 

かくして、僕の大学生活は2度目の終わりを迎えた。1度目の終わりで大学生としての肩書きを奪われた。そして、2度目の終わりで大学生としての僕が決定的に終わった。

不思議と喪失感はなく、奇妙な納得だけがある。僕の大学生活は、僕が大学を卒業してからの2年間を掛けてゆるやかに終わったからだろう。2年間で、喪失を喪失と思わないように、悲しいことを悲しいことと思わないように、なだらかに終わったから、あれだけ終わって欲しくなかった大学生活が終わったというのに、取り乱さずにいられている。

 

 

一つ嫌なことを思い出した。

 

会社で飲み会をした時に、同期の女の子に「いつまで学生気分引き摺ってるの?」と言われたことがある。確か、酔った僕が下品な話題で空回りしてた時に言われた一言だった気がする。

学生気分を引き摺っていたのは本当のことだし、引き摺ってナンボ、大人になってたまるものかと思っていたくらいだったが、その一言は胸にズキリと染みた。

僕は勝手に、僕以外の社会人1年目の人たちも、皆大学生のままで居たいものだと思っていたから、彼女の言葉は凄く意外だった。と同時に、もう社会人として生きる覚悟が出来ている彼女が眩しく見えた。

 

自分だけが、大学生を辞めたくないと子供のように駄々をこね続けている間、彼女も、他の同期もスッカリ覚悟を決めて大人になっていた。そうやって前に進んでいく彼女らを見て、置いていかれてしまいそいうで、後から気付いた時には、巻き返せない程距離が空いてしまいそうで、凄く怖かったのを覚えている。

きっと彼女らは、大学の卒業と一緒に、大学生としての自分も綺麗に終わらせられたのだろう。僕も、2年遅れだがようやく同じスタートラインに立てた気がする。

 

 

大学生を辞めてみて良かったことと言えば、一つ大きな発見があった。

 

大学を卒業する直前(これは本当に卒業式を迎える直前の話)は、これからもう自分の人生に大学時代以上の楽しい時間はは訪れないのだろう、と考えていた。

その予感は概ね当たっているのだが、予想と少し違ったのは思った以上に自分がそれを耐えられないことだった。

自分は当たり前のように大学を卒業して、当たり前のように就職し、皆がそうしているように、当たり前に苦しいことの方が多い社会人生活を耐えられるものだと高を括っていたが、どうやらそうではないらしい。

 

自分は自分が思う以上に、自分が楽しいと思う人生を送りたかったようだ。

以前までは大学生という肩書きが、無条件に自分は楽しいと思う時間を提供してくれたが、今はそうはいかない。だから、大学生という肩書きに代わって、自分の人生を楽しくしてくれる肩書きを自分で見つけなければいけないらしい、ということを、大学生を辞めてみて初めて理解した。

 

陳腐でチープな言い方をすれば、「自分探し」というヤツだ。ただでさえ少ない余暇を費やして、他の大事そうなコトを沢山放り出して書いているこの文章も、そんな青臭い「自分探し」の一つだ。

何者かになりたいと燻って、それでも自堕落な自分を辞められない若人のこの世で一番恥ずかしいポエムだ。

 

それでも、大学生を辞めてみたお陰で、自分はこの何者かになりたいという小さな火種をなんとか消さずに済んでいる。きっと僕が大学生のままだったら、燻ることすらできなかった。

そしてその火種は、二度に渡って終わり、スッカリ死に体となった僕の大学生活を焼べられながら、今も静かに灯っている。